中央大学 総合政策学部 横山 彰 ゼミナール

経済政策班 : 加地正樹  池上宗信

首都圏大手私鉄の運賃規制に関する事例研究

目次

1. はじめに ――――――――――――――――――――――――――――――― p. 2
2. 問題意識 ――――――――――――――――――――――――――――――― p. 3
3. 首都圏鉄道の現状 ――――――――――――――――――――――――――― p. 5
4. 価格規制 ――――――――――――――――――――――――――――――― p. 6
4.1.総括原価方式 ――――――――――――――――――――――――――― p. 6
4.2.上限価格制 ―――――――――――――――――――――――――――― p. 7
4.3.新たな価格規制とその問題点 ―――――――――――――――――――― p. 8
4.3.1.基準比較方式 ―――――――――――――――――――――――― p. 9
4.3.2.総括原価方式の下での上限価格制 ――――――――――――――― p.12
5. 設備投資補助政策 ――――――――――――――――――――――――――― p.13
5.1.加算運賃 ――――――――――――――――――――――――――――― p.14
5.2.公的補助 ――――――――――――――――――――――――――――― p.15
5.2.1.鉄建公団P線方式 ―――――――――――――――――――――― p.15
5.2.2.日本開発銀行融資 ―――――――――――――――――――― p.16
5.3.公的補助と鉄道経営 ―――――――――――――――――――――――― p.17
6. 物価抑制と鉄道運賃 ―――――――――――――――――――――――――― p.17
7. 低運賃政策の弊害 ――――――――――――――――――――――――――― p.24
8. 政策提言 ――――――――――――――――――――――――――――――― p.25
9. おわりに ――――――――――――――――――――――――――――――― p.28
参考文献 ―――――――――――――――――――――――――――――――― p.30
資料 ――――――――――――――――――――――――――――――――― p.31〜36

1. はじめに

筆者(中央大学総合政策学部横山ゼミ3年経済政策班)は、1998年11月22日の「公共選択学生の
集い」で開かれる分科会で、東海大学川野辺ゼミ日本経済パートと対抗ゼミをすることになっている。
その打ち合せの段階で、両ゼミは、市場中心型政策という共通テーマをより狭くした規制緩和を研究
テーマとして分科会をすることになった。また、規制緩和は、概論ではなく、事例研究として特定産業
における規制緩和を取り上げて研究を進めることになり、筆者は鉄道産業を事例研究として選択した
のである。
しかし、鉄道産業といっても、大都市と地方では様子が大きく異なる。大都市においては、通勤・通学
時の混雑が問題とされているが、地方では採算がとれなくてもその地域の社会から需要されている赤
字路線をどう扱うのかが問題とされている。筆者はより身近な大都市、さらに首都圏に空間を限定して
鉄道産業を研究することにした。また、鉄道産業に対する公的介入のうち安全基準などの社会的規制
については研究対象外とし、経済的規制である価格規制に関する議論を展開する。

本論文の主題は、鉄道産業のサービスと価格の水準はどのように決まっているのか、どのように決める
のが望ましいかというものである。本論文の流れは次のようにする。まず、筆者が考える市場中心型政
策のイメージを提示し、首都圏の鉄道産業についての「2.問題意識」を明らかにする。次に「3.首都圏鉄道
の現状」としてラッシュ時における輸送力の過小供給や鉄道事業者の収支状況などをいくつかの図表で
示す。「4.価格規制」では、運賃の規制方法を説明し、価格規制手法の問題点を明らかにする。「5.設備投
資補助政策」では、政府が鉄道事業者の大規模設備投資促進を補助する手法を説明する。「6. 物価抑制
と鉄道運賃」で、物価対策と運賃改定の関係を説明し、価格規制の運用に問題があったことを示す。「7. 低
運賃政策の弊害」では、低運賃政策の仕組みを説明することで利用者が無駄なお金を払い続けさせられて
いるを明らかにしたい。「8.政策提言」で、それまでの議論を踏まえて、筆者たちがより望ましいと考える政
策について述べる。「9.おわりに」で残された課題や筆者の反省について述べ終わりとしたい。
2.問題意識

筆者は市場中心型政策とは次のようなものだと認識している。社会が希少な資源をどこにどれだけ配分する
かという経済問題を解決する手段として、市場と政治がある。市場と政治は二者択一の手段ではなく、実際
には相互に補完させることによって経済問題を解決している。市場中心型政策とは、資源配分、価格、財・サ
ービスの質・量を決定する手段に占める、政治の比率を小さくし市場の比率を大きくするというような政策にと
どまらず、市場を社会的な決定方法の中心にすえ、市場が機能するように政治が補完するという政策と定義
する。
市場中心型政策への移行とは、パレート最適の達成という市場の機能が最大限発揮できるように経済構造を
変化させていくことを指す。具体的な移行政策としては、規制緩和・規制改革、民営化・Private Finance
Initiative導入など、政府の仕事をより効率的な民間に移行することと、市場の働きを阻害している規制を
緩和・撤廃することである。

上記を踏まえて、筆者が研究対象として選択した鉄道産業に目をむけると、焦点を当てた鉄道運賃に関して、
運賃の設定や各コスト項目の単価にまで、隅から隅まで、行政の規制が複雑に入り込んでいることが分かる。
その規制の根拠は運輸大臣に鉄道運賃の決定の権限が与えられていることに由来し、運輸省は各鉄道事業
者に対して目を光らせながら監視をしている。
この規制によって市場の失敗が解消されて、鉄道産業が最適な市場として機能しているのならば、筆者はこの
論文で主張することは何もないのだが、運賃規制は政治の失敗による弊害や非効率をもたらしている。運賃規
制を利用した低運賃政策によって、鉄道事業者は慢性的な赤字体質にならざるを得ない構造に苦しめられ、首
都圏の主要線区はいつまで経っても、快適な通勤・通学をすることが出来ない状況にあると筆者は認識している。。
この規制で「鉄道事業者は苦労するかもしれないが、利用者は低運賃で助かっている」と思ったら、それは大きな
間違いである。利用者は、政治や官僚の私的利益追求に手を貸していることに気づいていないのである。それど
ころか、利用者は何も利益にならないお金を運賃の一部として徴収され続けていくことも知らないのである。筆者
は、上記のことについて、この論文を通して論じていきたいと考えている。

筆者の問題意識は図2−1で示すことができる。運賃とサービスの関係を示すために、予算制約線と無差別曲線を
応用した。縦軸は運賃水準を示し、上にいくほど高サービスとなる。横軸はサービス水準を示し、右に行くほど高
サービスを意味する。
SS線は供給制約線と定義する。鉄道サービスは現状の鉄道事業者の経営能力・技術力の制約から、SSよりも
左下の領域でしか供給できない。U曲線およびU'曲線は利用者の無差別曲線である。社会的に最適な供給点は
SS線とU曲線が接点Aであるが、政治の失敗によりB点で供給されている。ここでは、B点を供給点とする政策を
低運賃政策と定義し議論を進める。この図から読み取れるように、低運賃政策は利用者の効用を引き下げるだけ
でなく、効用が下がることによって発生する超過コスト の負担を利用者に課している。これらのことが筆者の問題
意識である。

3. 首都圏鉄道の現状

表3−1 首都圏大手私鉄とJR東日本の概要(平成8年度)

筆者の研究対象である首都圏大手私鉄とは、表3−1のJR東日本以外の8社である。大手私鉄以外にもJR東日
本、中小私鉄各社、地下鉄各社が首都圏で鉄道事業を行っているが、首都圏大手私鉄とは異なる制度の下にあ
るので研究対象外とした。
首都圏の鉄道については、1985(昭和60)年に運輸政策審議会の第7号答申では、目標として2000年におけるピ
ーク時平均混雑率を180%以下とすることがあげられ、答申に基づいて現在も増強工事などが実施されている。7
号答申の整備路線(561km、31路線)のうち、1997年1月1日現在で、370km(66%)が営業中又は工事中であり、39
km(7%)については計画進行中であるが、残りの152kmについては整備計画未定となっている。
 混雑率など首都圏鉄道の現況についての理解を助けるものとして、巻末に以下の資料を添付した。参照して頂き
たい。
表10−1 首都圏大手民鉄8社の鉄軌道部門営業収支実績(平成9年度)
図10−1 東京圏主要線区における混雑率の推移
表10−2 首都圏の主要区間におけるピーク時と終日の混雑率(平成6年)
表10−3 首都圏の複々線化の現況 表10−4 JR運賃と民鉄運賃の比較
表10−5 JR東日本、首都圏大手私鉄8社の基準単価及び基準コストの算定にかかるデータ一覧
表10−6 特定都市鉄道整備事業計画の概要1
表10−7 特定都市鉄道整備事業計画の概要2
4.価格規制

ここでは、最初に1996年12月末までに採用されていた「総括原価方式」とそれに代わる運賃規制として学者などが
提唱していた「上限価格制」について論じる。その後、1997年1月から政府が実施している「総括原価方式の下での
上限価格制」と「基準比較方式」について検討を加える。

4.1. 総括原価方式

鉄道運賃は下記の鉄道事業法第16条によって規定されている。
1項 鉄道運送業者は、旅客または貨物の運賃及び料金(運輸省令例で定める料金を除く。)を定め、運輸大臣の認可
を受けなければならない。これを変更しようとするときも、同様とする。
2項 運輸大臣は、前項の認可をしようとするときは、次の基準によって、これをしなければならない。
1号 能率的な経営の下における適正な原価を償い、かつ、適正な利潤を含むものであること。
2号 特定の旅客または荷主に対し不当な差別的取り扱いをするものではないこと。
3号 旅客または貨物の運賃を負担する能力にかんがみ、旅客または荷主が当該事業を利用することを困難にする
おそれがないものであること。
4号 他の鉄道運送事業者との間に不当な競争を引き起こすこととなるおそれがないものであること。

2項1号から鉄道運賃は、「能率的な経営」「適正な原価」「適正な利潤」という範囲に定められていることが読み取れる。
適正な原価と適正な利潤を法律で保証することで、事業者が鉄道事業の存続を維持し、利用者が必要とする鉄道サー
ビスの供給を安定的・継続的に実施することを図っている。鉄道事業は安全確保、輸送力確保のために大きな設備投
資が必要である。しかし、それによって減価償却費、利子などの費用が増大して、事業の継続に影響が出ないように、
営業費(原価、コスト)に事業報酬額(資本に対する「賃金」の額)を加えた額を、運賃によって回収すべき「総括原価」 と
行政が認定し、それを総生産量で割ったものを鉄道事業者の「賃率水準」とすることで、適正な利潤を保証している。
しかし、この総括原価方式にはいくつかの問題がある。それは、総括原価方式の運用において何が適正な原価であるか
を、法律は何も明らかにしておらず、その判定は行政官庁の決定に委ねられているため、原価が適正のものではなく恣
意的になることである。
総括原価方式の根幹である適正な利潤の保証は実際には守られなかった。総括原価方式の運用に問題があったのであ
る。公共料金値上げ抑制の掛け声のもとに、運賃値上げを抑制したが、これが私鉄の投資意欲を阻害した。86年に特定
積立制度(5.1.で後述)が制定されるまでは、複々線化投資などの大規模投資はほとんど行われなかった。行政が物価
政策として公共料金の値上げを抑制したため、私鉄が投資資金を運賃値上げによって確保できなかったからである。この
問題については6章以降で再び議論したい。
また、企業が経営合理化を行ってコストを削減しても、行政が「適正利潤」以上の利潤を認めず運賃を引き下げるため、企
業は利潤を増やせない。このため企業の経営合理化のインセンティブが決定的に欠如してしまうのである。そして総括原
価方式による規制では、経営努力をしなくても、コストが上がり、収支率が悪化してしまえば、運賃を上げることができてし
まう。このことから、企業は総括原価方式のもとでは経営効率化のインセンティブを持たないとされる。しかし、企業は鉄道
部門だけでなく兼業部門においても事業を行なっている現実に目を向ければ、この理論は現実を説明できない。実際には
適正な利潤が保証されていないので企業は鉄道部門では利潤を得にくい。よって、鉄道事業のインプットを減らして、より
利潤の得られる兼業部門へより多くのインプット投入を望むので、鉄道部門のコスト削減を図るのである。これは実証でき
ていないので単なる仮説でしかないが、筆者はこの前提の下に議論を進める。

 4.2.上限価格制

上限価格制とは、国に関与されず自由に一定率以内の運賃引き上げを実行できる制度であり、総括原価方式よりも事業
者は自由な経営を行える。事業者が自由に運賃の改定を行う上限を定める一定率は、物価上昇率とするのが通常である。
従来の総括原価方式による規制では、価格水準を定めていたのに対して、上限価格制は価格上昇率の上限を定める。また
個別のサービスの価格を規制するのではなく、サービス分野ごとに上限価格を設定する。首都圏通勤路線、都市間幹線路
線、地方路線等に分割し、それぞれの運賃に上限を設定するが、個別のサービスや路線についての上限以下の運賃設定
は自由に行えるようになる。
上限価格制の主眼は、物価上昇率という行政の裁量の及ばない値を基準に用いることで、規制当局の価格規制における裁
量の余地を小さくすることである。また、規制方式が単純明快であり、透明度が総括原価方式よりも高いことである。このこと
が規制当局の裁量の余地を小さくさせ、規制官庁の省益の追求による歪みを抑えることにつながるのである。日本で上限価
格制を導入すれば規制当局の恣意的な裁量を抑える効果があると、この規制手法を支持する学者達は主張してきた。
また、企業は経営効率を改善しコストを削減した場合、総括原価方式のように運賃を引き下げられることはなく、利潤を増大さ
せることができる。つまり、企業は上限価格制のもとで経営効率化のインセンティブを持つのである。
しかし、上限価格制にも問題点がある。それは、自由な運賃改定の上限を定める「一定率」は物価上昇率(消費者物価指数)
だけではなく、経営効率改善を促進するために「消費者物価指数−生産性向上率(目標値)」が支持される。目標値である生産
性向上率の設定は、結局のところ、行政の裁量に委ねられてしまうので、恣意性は除去できない。大規模設備投資促進が必
要とされる場合、「消費者物価指数+資本費増加率」を上限として、物価上昇率以上の運賃値上げを認める方法がとられる。
資本費増加率を設定も行政の裁量に委ねられる。

4.3.新たな価格規制 とその問題点

運輸省は、学者や有識者からの総括原価方式の問題点についての指摘や、上限価格制導入の提唱、そして、行政改革を主
張する政治家からの圧力や、民間や世論からの規制緩和等の要望にこたえる形で、今までの「コスト+適正利潤=総括原価」
…(1)という算出方法を改良した新しい旅客鉄道運賃制度を提案し、1997年1月から運用が開始された。この制度のセールスポ
イントは、「コスト算出方法の見直し」と「従来の総括原価主義に上限価格制を取り込んだこと」である。

4.3.1.基準比較方式

「コスト算出方法の見直し」というのは、上記(1)式の「コスト」の算出方法を改良したことである。この新しいコスト算出方法につい
て説明する。まず、下記の図4−1がコスト算出方法のおおまかな流れである。
図4−1 適正コスト算出フロー

この算出方法には、基準比較方式(ヤードスティック方式)が組み込まれている。基準比較方式とは、政府が何らかの経営効率
基準を設定し、その基準を上回る企業にはアメを与え、下回る企業にはムチを与えることによって、企業に経営効率化へのイン
センティブを持たせようとする手法である。具体的な例で理解してもらうために、図4−1左上の「回帰式で基準コストを算出」につ
いて詳しく説明したい。まず、下記の図4−2にあるように鉄道事業にかかる「費用を5グループ化」する。ここでは、例として駅務
費についてのみ説明する。基準年度におけるA社の駅務費の総計を駅の数で除したものが単価である。同様に他の大手民鉄
企業の単価も求める。この単価を被説明変数とし、エレベータ・エスカレータ設置比率と1駅あたり乗車人員を説明変数として回
帰分析すると、
基準単価 =  定数α × エレベーター・エスカレーター設置比率
      + 定数β × 1駅あたり乗車人員 + 定数γ
という回帰式が得られる 。この回帰式の右辺にA社のエレベーター・エスカレーター設置比率と1駅あたり乗車人員を代入して求
められる基準単価が、A社の基準単価である。
この基準単価にA社の駅の数を乗じたものが、A社の基準コスト(駅務費)である。同様に、駅務費以外の費目についても基準コ
ストを求め、5つの費目の基準コストを合計して、
基準コスト(合計)が得られる。
 A社は実績コスト(実際にかかった鉄道事業コスト)が基準コストを上回っていればムチを与えられ、逆ならばアメを与えられる。
具体的には、
@ 実績コスト>基準コスト ならば 基準コスト=適正コスト とされ、逆に
A 実績コスト<基準コスト ならば (基準コスト+実績コスト)/2=適正コスト とされる。上記の図4−1より適正コストは総括
原価の一部であり、4.1.より総括原価は運賃収入の合計に等しいことがわかる。よって、@の状態(実績コスト>適正コスト)の
企業は、運賃収入<実際の総括原価となり、苦しい経営状況にさせられる。これが、政府が相対的に経営効率の悪い企業に
与えるムチである。企業は、このムチをまぬがれ、アメを得るために経営効率上昇に努める。以上が、鉄道産業における比較
基準方式を用いたコスト算出方式の内容とメリットである 。(巻末に、コスト算出についての資料として「表10−5 JR東日本、首
都圏大手民鉄の基準単価および基準コストの算定にかかるデータ一覧」を添付した。参照していただきたい。)
決算関係データ


費用を5グループ化
費 目 施設量 説 明 変 数
線路費 線路延長` 線路1`当たりの車両`等
電路費 電線延長` 電車線1`当たりの電車走行`等
車両費 車両数 1車両当たり車両走行`等
列車運転費 営業` 1営業`当たりの列車走行`等
駅務費 駅数 1駅当たりの乗車人員等

単 価 化 コスト/施設量

回 帰 分 析

基 準 単 価 算 出
*基準単価算出例 (単位:千円)
線路費 電路費 車両費 列車運転費 駅務費
A社 13712 1060 6941 38319 113048
B社 20931 3320 6612 67269 157438
C社 19739 2037 7119 61425 117048
D社 29602 3170 6687 89778 118346

基準コスト算出 基準単価×施設量  基準コスト合計算出例 (単位:百万円)
基準コスト 実績コスト
A社 68306 69318
B社 44764 41032
C社 22348 23848
D社 34552 33080

公 表

図4−2 基準コスト算出フロー
この制度の問題点には、回帰分析で出てきた数式で事業者の経営方針を縛るので、経営の硬直化
が進んでしまうことが挙げられる。そして最大の問題点は、サービス低下の可能性が大きくなったこと
である。交通における必要条件として、大量性、速度、正確、確実、低廉、安全、便利、快適などが考
えられ、それらのどれに比重を置くかによって政策が変わると思われるが、現在運輸省が採用している
基準比較方式では、低廉に重点をおくのではなく、低廉しか交通の必要条件として認めないことになる。
基準比較方式はサービスの質の高低は全く考慮されず、原価の高低だけで、適正運賃・適正利潤を算
出しようとしている。サービス向上につながる輸送力増強投資や、高齢者や身体障害者のための投資が
行われても、基準比較方式では、サービス向上に対する貢献やそのためのコストは反映されないので
ある。サービス向上のインセンティブは失われ、サービスの低下を招く。

4.3.2.総括原価方式の下での上限価格制

「総括原価方式の下での上限価格制」導入というのは、「コスト+適正利潤=総括原価」の「適正利潤」
「総括原価」を見直したということである。運輸省が採用した「上限価格制」と、学者達が提唱する(4.2.で筆
者が説明した)「上限価格制」は、全く異なった制度である。4.2.の「上限価格制」は、運賃の上限値を消費
者物価指数などに基づいて設定するのだが、運輸省のいう「上限価格制」は、基準コストに基づいて運賃の
上限値を認可し、認可された上限運賃の範囲内であれば、運賃の設定・変更ができる制度である。これに
よって、認可された上限運賃と実際に設定された運賃が一致しないこともありうる。この「総括原価方式の
下での上限価格制」と前節の「基準コスト算出方法の見直し」によって、「コスト+適正利潤=総括原価」から
「基準コスト+適正利潤≦総括原価」に変化したことになる。運輸省は、事業者の自主性が拡大すると共に
規制コストの縮小も図られることになるので、学者たちが提唱した「上限価格制」とはほとんど変わらないと
主張している。
表4−1 首都圏大手私鉄8社に設定されている上限運賃

この制度の問題点として次のことを指摘できる。「総括原価方式に基づいて運賃の上限値を認可し、認可さ
れた上限運賃の範囲内であれば改定できるわけだが、行政が決める上限運賃は、従来の運賃とほとんど変
わりがない。つまり「従来運賃による総収入=総括原価」から「上限運賃(≒従来運賃)による総収入≦総括原
価」への変更がなされたことになる。従って「事業者の自主性」が拡大するといっても、従来の適正利潤以上
の利潤を得ることは、コストを削減しない限り不可能である。また、コスト削減には限度があるので、収支状況
悪化のための上限価格見直しが政治的圧力などによって行われなければ 、事業者の行動として、当面の
利益確保の為に、サービスの質を悪化させてしまうようなコスト削減をする可能性は否定できない。

5.設備投資補助政策

ここまでの議論で、価格規制の仕組みや運用の仕方が大規模投資を抑制することを明らかにしてきた。しかし、
政府はそのような政策をとりつつも、設備投資を促す混雑緩和を図るために別の政策を実施している。政府が鉄
道企業の設備投資、輸送力増強を促すためにとっている政策は、おおまかに運賃を利用した加算運賃と政府財
政を利用した公的補助の2つにわけられる。ここでは、この2つの設備投資補助政策について順に論じたい。

5.1.加算運賃

加算運賃とは、総括原価方式のもとで定められた運賃額に、特別に上乗せ(加算)する分の運賃額のことを指す。
加算運賃には、大都市私鉄に関連するものとして@新線加算運賃、A特定積立制度の適用に伴う加算運賃、の
2種類がある。
新線加算運賃は、新線建設に伴う支払利子や減価償却費を一定期間にわたり新線区間の運賃に反映させようと
するもので、費用の原因者負担原則に配慮した運賃制度である。現在、首都圏の私鉄では京成空港線、京王相
模原線、小田急多摩線など、近年に開業した私鉄新線において実施されており、加算額は10円から80円である。
特定積立制度の適用に伴う加算運賃は、複々線化などの大規模な鉄道施設改良工事に要する将来費用の一部
を現行運賃に加算し、それによる増収分を特定都市鉄道整備積立金(非課税)として積立てるもので、輸送力増強
の促進を目的としている。積立金は輸送力増強の工事費に充当される。積立限度額は工事費の半分であり、加算
運賃の認定から10年後に工事を完了させることが条件である。

図5−1 特定都市鉄道整備積立金制度の仕組み

この制度は1986年に設立され、現在までに東武伊勢崎線(北千住−北越谷)、西武池袋線(池袋−石神井公園)
同新宿線(西武新宿−上石神井)、小田急小田原線(新宿−和泉多摩川)、東急東横線(渋谷−日吉)、同目蒲線
(目黒−多摩川園)、京王(全線)に適用されている 。運賃加算額は普通運賃が10円、1ヶ月通常定期運賃が300円
で、京王の長編成化工事以外はすべて複々線化工事に対応している。いまのところ、関東私鉄以外の適用例はない 。

5.2.公的補助

私鉄企業が、新線建設や複々線化などの大規模投資を行おうとする場合に利用可能な公的補助制度 には、鉄建
公団P線方式および日本開発銀行融資の2つがある。

5.2.1.鉄建公団P線方式

鉄建公団P線方式とは、日本鉄道建設公団が私鉄の新線建設や複々線化などの大規模工事を私鉄企業に代わって
実施し、完成させた鉄道施設を25年間元利均等償還の条件で私鉄企業へ譲渡する方式をいう(P線とは民鉄線を表す)。
鉄建公団がP線工事のために借入し利払いをするさい、金利5%を超える分の利払い額は国庫から補助を受ける。私鉄
企業は補助金の直接的な受け手ではないものの、利子補給を受けた鉄道施設を鉄建公団から譲渡されるので補助金
の間接の受け手となる。ただし、金利の高い時期ならばともかく、金利の低い時期の補助効果はあまり大したものでは
ない。事実、近年のP線関連の利子補給金(国庫負担分)総額は年度あたりせいぜい30億円程度に止まっている。
私鉄にとって魅力的なのは、むしろ25年間の元利均等払いという有利な返済条件で完成施設の譲渡を受けることができ
る点であろう。民間借入金の返済期限は通常これよりもはるかに短く、さらに元利均等ではなく、元金均等償還方式の
ため、企業としては新施設使用開始直後の運賃収入が少ない時期に元金プラス利息の高額な返済金の支払いに追わ
れることになるからである。
鉄建公団P線方式の対象工事は、三大都市圏で行われる@大規模ニュータウンを結ぶ新線建設、A複々線化工事、
B地下鉄への直通乗り入れ新線建設、C地下鉄新線建設、の4種類である。これらの工事に要する資金の60%は財投
資金(大蔵省資金運用部、政府引当債、政府保証債)から、40%は特別債(鉄道建設債券)の発行によってまかなわれる。
1972年にP線方式が発足して以来、1992年までに大手私鉄9社など合計115qの新路線がこの方式の下で整備された。
@のタイプには、京王相模原線、小田急多摩線、北総開発線、千葉急行線、Aのタイプには東武伊勢崎線や京成本線の
複々線区間、Bのタイプには西武有楽町線、Cのタイプには東急新玉川線などが含まれる。

5.2.2.日本開発銀行融資

日本開発銀行が大都市私鉄やJRに対して行っている長期かつ低利の資金融資は"開銀融資"と呼ばれる。開銀融資は直接的な公的補助制度ではないものの、融資額の大きさの点で、また私鉄投資活動の推進役を果たしてしてきた点で、大都市私鉄に対する公的援助の中心的な役割を果たしてきた。開銀融資の対象は、"特定工事"と"一般工事"に分けられ、前者に対する融資比率は50%で、優遇的な融資金利が適用される。後者の融資比率は30〜35%で、融資金利は特定工事に比べると少し高いが、それでも返済条件は民間借入れに比べてかなり有利である。
特定工事は、安全防災工事(立体交差化、踏切保安設備、線路強化)、輸送力増強工事(新線建設、都心部乗入れ、複線化、車両増強、ターミナル改良、車庫建設)、通勤混雑緩和対策工事(駅改良工事)の3種類から成り、私鉄企業にとって基本的な性質をもつ交通投資のほぼ全体がカバーされている。一方、一般工事の対象は輸送サービス工事であり、車両冷房化、駅新設、旅客施設安全対策などがこれに含まれる。

5.3.公的補助と鉄道経営

近畿大学の斎藤峻彦教授は政府の大都市私鉄企業への公的補助について次のように述べている。
「日本型鉄道経営の成功を支えてきた要因の1つとして、鉄道建設に関連した私鉄補助制度の未整備をあげてもよいくらいである。公的補助が不十分であったがゆえに、我が国の大都市私鉄各社は、みずからの財政体質の悪化を誘うような新線建設計画の実施に関して、慎重な態度を貫くことができたためである 。」

斎藤教授のいう日本型鉄道経営の成功を支えたのは、公的補助の不足というより、政府が事業者の損失を補填しなかったことによると筆者は考える。事業者の損失補填には、利用者からの直接・間接的な補償が必要で、この損失補填の原資を公的補助に求めれば次のような問題が生ずる。損失補填がいつでもなされるのならば事業者は費用最小化誘因を失う。これは実際に生じている事業損失が効率的な経営をしても避けることができない損失なのか、それとも事業者が費用最小化努力を怠ったために発生する損失なのかを判断することが困難だからである。この場合には、事業者は経営効率の改善努力をせずに、損失補填による利益を享受しようとする誘因をもつために「X-非効率性(X-inefficiency)」が発生する 。このような問題を招く、損失補填の公的補助を行なわなかったことが、大手私鉄の自立経営を保つ要因となった。後述するように今日の首都圏鉄道における通勤・通学ラッシュをもたらした原因は運賃抑制によるところが大きいわけだが、価格規制を改革するだけでなく、現状の公的補助制度を損失補填をしない範囲で拡充することも混雑緩和・サービス向上のために必要である。

6. 物価抑制と鉄道運賃

運賃及び料金については、4.1.で触れた「鉄道事業法第16条」により、鉄道事業者の申請に基づいて運輸大臣が認可する仕組みとなっている。これは運賃及び料金が、利用者が直接これを負担するものであるとともに、鉄道事業者の収益に直接影響を及ぼすものであるため、利用者の保護、および健全な鉄道事業の運営を図るための仕組みである。そして同法16条2項1号にあるように、鉄道企業は適正な利潤を保証されている。
(注) 1.89年までは相鉄を除く14社。90年から15社。
2.収支率とは鉄軌道部門の収入総計/費用総計に100を乗じたもの。
           図6−1 大手私鉄の鉄道部門収支率

しかし、大手私鉄の鉄道事業の経営状況は、図6−1から読み取れるように現実問題として3年のうち2年は赤字という状態が続いている。この問題について以下で議論したい。

運賃改定を行なうとする事業者が、所轄官庁である運輸省に運賃改定を申請すると、次頁の図6-2のプロセスを経て認可に至る。運輸省は改定内容を厳正に審査すると同時に、運輸大臣の諮問機関である「運輸審議会」に諮問し、審議がなされる。この時、必要に応じて公聴会が開かれ、国民の意見が聞かれる。一方、運輸省は経済企画庁と協議するが、経済企画庁は公共料金を調整する立場から検討を加え、必要に応じて「物価安定政策会議」に諮り、消費者代表、学者などの学識経験者から意見を聞く。その結果、運賃改定を行なうこととなれば、「物価問題に関する関係閣僚会議」の了承を得て、運輸大臣が認可することとなる。



図6−2 大手私鉄における運賃及び料金の改定プロセス

交通評論家の角本良平氏は、物価政策と鉄道運賃の抑制について次のように述べている。
「物価を理由に鉄道運賃を抑制するのは本来、法律にはない処置であるのを、その権限のない機関が参加して行なっているのである。鉄道運賃など『公共料金』は、好況時には物価上昇を理由に抑制がいわれ、不況時には各企業が合理化努力をしており、鉄道などもそうすべきだとされる。しかし公共料金の事業も、好況時には物価上昇の影響を免れるわけではないし、不況下の合理化には他産業と異なる制約がある。例えば、公共料金の事業は事業所の改廃や製品内容の変更による経費削減の余地が少ないのがその一例である。またその需要は不況時にも落ち込みが小さい代わりに、好況時に大きく伸びるのではない。不況時の欠損を好況時に一挙に取り戻すといった可能性はないのである。一度欠損をつくれば、永久に回復できないおそれがあり、好況時も不況時にも欠損に陥らせてはならないのである。社会としての安定供給が必要な以上は、安定経営の存続が大切なのである 。」
 
筆者はこれに対して次のように考える。鉄道産業における政治の失敗は、鉄道運賃を物価政策に利用したため、鉄道運賃が抑制され設備投資が過小となり混雑緩和が進まなかったことである。運賃規制のそもそもの目的は、鉄道企業に独占的な地位を認め安定的な供給を図るが、独占の弊害をなくすため価格規制などによって適正な利潤だけを認めるというものだった。しかし、行政は国民の支持を得るため、物価政策の名のもとに鉄道運賃を低く押さえてきた。鉄道事業によって適正な利潤を得られるどころか3年のうち2年は赤字であり、鉄道企業は兼業による利益を補填することに経営を維持してきた。鉄道企業が規模の割には利潤の得にくい鉄道部門ではなく、兼業部門により多く投資するのは必然である。

表6-1 首都圏大手私鉄8社の部門別収入と構成比(1990年度)
表6−2 首都圏大手私鉄8社の部門別収支率と利益構成比(1990年度)
なぜこのような現状が続くのかを、筆者の前提を明らかにしてから、分析したい。
鉄道産業にかかわるプレイヤーとして、政治家、官僚、利用者、企業の4つを考える。それぞれのプレイヤーの目的は、政治家:得票最大化、官僚:権限最大化、利用者:サービスの低価格化・良質化、企業:利潤極大化である。

4つのプレイヤーが相互に影響しあった結果、図6−3のような構図が形成される。利用者は低価格を求めるので、政治家は利用者の票を得るために物価安定という名目で運賃を抑制する。官僚は、運賃改定認可権と公的補助認可権を用いて権限を行使する。企業は、鉄道部門では利潤を得にくいので兼業部門での利潤を追求する。筆者は運賃抑制、設備投資不足は、このような政治の構図から生まれたと考えている。
ここで注目すべきは政治家と官僚の間の取引である。政治家の要請する低運賃政策はサービス水準を低下させるので、補完政策として投資補助政策の必要性が増す。官僚は新たな認可権、裁量の余地を手に入れることにつながるので、低運賃政策に応じるのである。この政策パッケージが利用者に超過コストをもたらすことについては次章で述べる。

この政治分析の目的は利用者の効用を引き下げる低運賃政策がなぜ決定されるのかを明らかにすることであり、2つの原因が考えられる。
1つめは、低運賃がサービス低下をもたらすことを明らかにするプレイヤーが存在しないことである。運賃とサービス水準の関係を最も良く知っている鉄道事業者は、低運賃政策によって鉄道部門の利潤を抑制されている。しかし、運賃抑制を緩和するためにサービス低下を明らかにし政治に働きかけることへ資本を投下しない。なぜならば、鉄道事業者はより多くの利潤を得られる兼業部門へ投資することによって利潤最大化を図るからである。
もう一つの原因として、利用者の情報獲得コストが大きいことが挙げられる。利用者が運賃とサービスの関係を知るためには大きなコストがかかるので、利用者は情報を得ずに運賃改定時に値上げ抑制を求めるという行動をとる。そして政治家は利用者の要望に答えるのである。これによってどのような変化が起きるのかを図2−1(4ページ)を用いて説明したい。政治家と利用者は運賃抑制によって経営改善つまりSS曲線の上方シフトを期待するが、実際にはSS線はシフトせず、供給点がSS線上を左上に移動するのである。利用者は運賃とサービスの関係つまりSSの傾き・位置を知らないので、運賃抑制をしなければ達成された効用水準よりも低い効用水準をもたらすB点での供給に反対することはないのである。この2つの原因により、低運賃政策が利用者の効用を引き下げるにもかかわらず政治決定されると認識している。

ここで重要なのは、運賃抑制がサービスの質を下げることを利用者が十分に知っているかどうかである。利用者の鉄道運賃に対する意識を知るには、経済企画庁物価局が実施した「公共料金に関する意識調査」 が参考になる。鉄道運賃は「サービス内容からすれば料金は割高」と答えた人の割合は41.7%、「サービス内容に見合った料金」は40.1%である。また、大都市において公共料金を「現状どおり規制すべき」と答えた人の割合は45.1%、「できるだけ緩和すべき」は35.3%である。
この結果を素直に受け取れば、利用者は企業にさらなる経営効率改善、コスト削減によってより低価格なサービスを求めるという、政府が現在実施している政策を評価していると取れる。しかし、このことから利用者が現在の通勤ラッシュを容認しているといえるのだろうか。
政治家は、経営効率改善を求める政策、運賃抑制政策のメリットしか主張しない。過度にその政策を推し進めれば、企業は利潤を得られなくなるため、リスクの伴う大規模設備投資を避けるようになるデメリットについて言及することは得票につながらないので行わない。官僚は大規模設備投資のコストを含んだ運賃を認めると、設備投資補助政策の必要性が小さくなり、公的補助認可権という権限の縮小につながるので、低運賃政策を維持しようとする。企業は、鉄道部門の利潤を確保するために低運賃政策の弊害を政治家や利用者に訴えることはしない。なぜなら、そのような政治コストのかかることに投資せずに、利潤の得られる兼業部門にその分を投資するからである。
そのような状況下で、利用者は運賃抑制がサービス低下を招くという情報を自ら獲得しているとはいえない。利用者は、サービスの低価格化・良質化を求めているが、サービスの水準と運賃の水準の関係についての情報を獲得するにはコストがかかるので、行政に企業との対話を委ねている。

筆者は混雑があるから問題だとしているのではなく、混雑・運賃水準の社会的決定が政治の関与のため歪められているのが問題だと考えている。鉄道産業のサービス・運賃水準を市場では最良な決定がなされないとされ、政府の介入が正当化されてきた。政治家と官僚が、企業と利用者の間に入って両者にとって最適な混雑・運賃水準に導いているのならば問題とはならない。しかし、政治家と官僚がそのような行動だけをとらないことは明らかである。鉄道のサービス・運賃水準を決定するにはどのような方法が望ましいのだろうか。
企業と利用者の直接対話による運賃・サービス水準の決定は、政治の失敗による歪みを生まない分、社会的に最適な水準に近づく可能性がある。行政の仲介・規制なしでサービス改善、経営改善が進まないかどうか、どれほど進むのかを見極め、望ましくないのなら対策を取るといった事後評価型の制度に転換することを意味する。対話は企業と利用者が直接行い、問題がおきたら第三者機関が調停するシステムである。政治の失敗・規制の失敗による弊害を考慮するならば、司法・公正取引委員会を活用する方向を模索する必要が出てくる。不当な内部補助などによる過当競争がおきたら、被害者側の企業が相手事業者を訴えればよいし、消費者が鉄道企業の不当な値上げを感じたら、企業を訴えればすむ。
この制度のデメリットは、大まかに2つに分けられる。一つは、企業と利用者の対話がうまくいかないもしくは対話に莫大なコストがかかる可能性である。企業は地域独占なので利用者の声を聞かない、利用者の数が多すぎて声を集約できないことなどが考えられる。もう一つは対話がうまくいかなかったときの調停のコストが莫大になる可能性である。このとき、政治家と官僚は利用者と企業の対話を促すことが求められる。
資源配分、価格、財・サービスの質・量を決定する手段に占める、政治の比率を小さくし市場の比率を大きくするという意味では市場中心型政策と呼べるが、市場を社会的な決定方法の中心にすえ、市場が機能するように政治が補完するという政策とは言い切れない。
鉄道のサービス・運賃水準を決定する望ましい手段を判別するのは難しい。このような制度、現状の制度、両者の中間に位置する制度なのだろうか。もしくは新たな制度があるのだろうか。今後の課題としたい。
この章の政治分析から次のことを示唆したい。利用者が低価格の弊害を認識できる制度、もしくはその情報を獲得するコストを小さくできれば、現状の制度における政治の失敗は改善できる。しかし、政治家、官僚、企業はそのような変化を求めるインセンティブを持たないので、制度変換による政治の失敗の改善は難しい。

7. 低運賃政策の弊害

前章で触れたように、政治家は自分達の都合で鉄道事業者に対し経営状況が悪化しようが運賃値上げを妨害してきた。また、運輸省は、現在も鉄道運賃を公共料金とみなし、公共性という名の下で、ひとまず利潤を与えないような運賃設定をするという「低運賃政策」を戦後から行い続けてきた。そして、利潤を与えないような運賃設定をしながら、一方で輸送力増強やサービス改善を促進させる計画を作成させ、減価償却費を大きく上回り営業収入の40%にも達するような投資を行政指導で行わせてきた。そして、利潤が少ない鉄道事業者でも事業達成させる手段として日本鉄道建設公団に工事を依頼して後に買わせるようにしたり、時には日本開発銀行から融資を受けさせたりしてきた。
このようなシステムにより、首都圏の利用者は、低運賃で鉄道を利用できるのであるが、筆者はあえて、実は「このシステムは鉄道サービス発展の最善の方策ではない」ことを示唆したい。上述したように、鉄道事業者は利潤を抑えられていることから、輸送力増強の為に多くの資金を日本開発銀行から借り入れている。その毎年の支払利子額は、首都圏大手私鉄8社の合計で、800億円を越えており、各事業者の費用総計の1割を占めている。その利息支払いは、鉄道事業者にとっては大きな負担であるのだが、そもそもその利息支払い自体は、鉄道サービスの発展には役に立たないのである。そしてその800億円を毎年負担しているのは、何も知らない利用者なのである。
このシステムが最善の方法ならば、仕方のないこととして利用者は負担するかもしれないが、筆者はそうではないと考える。鉄道事業は混雑緩和のために多額の投資をしているが、輸送力が増えても輸送人員が増えるわけではないので、収入があまり増えない。従って、経費だけが増大する恐れがあり 、後の元本返済が困難になることも予想される。
鉄道事業者の一時的な利潤増加を許さない運賃規制によって、事業者が事業者自身の力で投資できない構造を生み出し、行政上の政策の都合で輸送力増強を指導する時は、日本開発銀行から多額の資金を借り入れさせて、その元本は多額の利息を付けて鉄道事業者に払わせる構図を生み出している。利用者の利益の為に行っている低運賃政策にそって鉄道事業者にかけた規制は、実は利用者に鉄道サービス向上には一切結びつかない分の運賃も請求しているのである。

8.政策提言

現在行われている政策の問題点は、政治の失敗によって混雑緩和・サービス向上のための設備投資が過小であることである。その原因は、以下の3つである。
A. 物価抑制の名のもとに鉄道運賃が抑制され、鉄道企業が鉄道部門で適正な利潤を得られないので設備投資のインセンティブをそがれている。現状の政策は、「上限運賃による総収入≦総括原価」としていることから、企業は鉄道部門で適正な利潤を得られなくてもかまわないという政府の姿勢が読み取れる。
B. 基準比較方式では、企業努力を図る基準がコスト削減、効率化、低廉化だけなので、サービス改善は進まない。それどころか、鉄道企業が設備投資を拒める理由を作ってしまった。輸送力増強を図るための加算運賃や公的補助の制度が活かされない状況をまねく。
C. 鉄道事業者は、日本開発銀行からの融資や日本鉄道建設公団による工事補助などの受けられるような構造になっているものの、運輸省から「公共性」と言う名目で、運賃設定に関しての自由がほとんど認められておらず、低運賃に抑えられているために、将来の鉄道事業者と利用者の負担増が予想されることから、設備投資計画の作成に抑止力が働き易いようになっている。

ここで提言する政策の目的は、上の3つの問題を解消し、鉄道産業におけるサービス水準・運賃水準を社会的に最良な値に近づけることである。

求められる市場中心型政策としての規制改革の方向は、@行政が鉄道企業を不当に圧迫しないこと、Aサービス改善・設備投資が進む制度を構築すること、B輸送力増強事業を行政主導から鉄道事業者主導で行わせるようにすることである。
そのような政策として、まず、今までのような設備投資を抑制する運賃の押さえつけを止めるべきである。第一歩として、総収入=総括原価を徹底する。前年度で赤字が出たら運賃改正、政府は欠損分を保証せず鉄道企業の負担とする従来のやり方ではこれを徹底できないので、どうしても物価抑制のために鉄道運賃を過度に抑制するならば政府が企業に対して何らかの補償をすること義務づけた法律が必要となる。
また、サービス改善の尺度を基準比較方式に取り込めない基準比較方式を廃止すべきである。経営効率改善を促進するメリットよりもサービス改善を抑制するデメリットの方が大きすぎるのである。筆者は基準比較方式というインセンティブ規制の伴わない総括原価方式のもとででも経営効率化へのインセンティブは働くと考えている。企業は利潤の得にくい鉄道事業のインプットを減らして、より利潤の得られる兼業部門へより多くのインプット投入を望むので、鉄道事業のコスト削減を図るからである。この前提のもとでは、基準比較方式は、コスト削減を促進しサービス改善をさらに抑制するという負の効果を生む。即時撤廃は政治的に実現が難しいので、改革の第一歩として、基準コストのプラスマイナス10%もしくは20%の範囲に実績コストが収まっている企業にはアメもムチも与えないという幅(グレーゾーン)を組み込んだ基準比較方式にすべきである 。著しく非効率な企業のみに罰を与える方向で良いはずである。
そして、日本開発銀行からの融資額と日本鉄道建設公団の工事費用を年々減らすようにし、その削減額をそのまま適正利潤に上乗せさせることで、借金にならず利息のつかない設備投資額を増やすようにするべきである。投資額を運賃に上乗せして獲得できるようになることで、運賃は値上げされるが、長期的には、現在年間800億円払われている支払利息分の負担が減るので、その方が実は利用者にとって利益が大きいのである。現在の構造は、言い換えれば、すでに行われているはずの設備投資による運賃値上げを、融資などの借金で賄っていることで、将来に先送りされているだけなのである。従って、今の制度でもいつかは値上げされるはず出し、今の制度の方だと支払利息分が上乗せされて、利用者の負担が増大されてしまう。よって、利用者にとっての利益は、筆者の政策提言案の方が大きいと言える。

上述のような改革をしても、利用者の望むサービス・運賃水準には達せず、何かの事情で混雑緩和の設備投資が不足することも予想される。さらなる混雑緩和に向けて政府のなすべきことは、税金の投入ではない。 税金投入の問題点には、(@)負担の不公平性、(A)財政錯覚による過剰需要、(B)政治の介入をまねくこと、の3つがあり、投資促進のメリットよりもデメリットの方が大きい。したがって、行政は利用者と企業の混雑緩和についての対話を促すこと、企業に設備投資の費用を運賃に反映できる制度の創設することに努めれば良い。企業がどれだけ運賃を上げればどれだけの混雑緩和が進むという選択肢を利用者に明らかにし選択を迫ることを促す役目などが政府に求められる。また、混雑料金などを実施できる制度を用意するのは行政の役目である。どの程度の混雑レベル・サービスレベル・運賃・料金を選択するかは利用者の判断にまかせれば良い。
いままでは、行政が利用者の意見を集約し企業と掛け合うという一見効率そうなシステムだったわけだが、これが建前通りにいかないことは既に述べた。 政治の失敗、規制の失敗のコストを考慮するならばこのような政策の実施が望まれる。


9.おわりに

この章では、(1)この事例研究で残されている課題、(2)筆者が第8章で提案した市場中心型政策の問題点、(3)この事例研究の筆者の感想について言及し本論文を締めくくりたい。

まず、残された課題について言及すると、@政治分析のためのデータが不足している。A運輸省・公益法人と鉄道事業者・利用者の関係がはっきりしていない、の2点である。@は、「6.物価抑制と鉄道運賃」でも述べたことであるが、運賃改定と政治介入の関係を計量分析するためのデータが不足していたことである。その原因としては、説明変数の選択の問題や、政治的圧力の存在の可能性から運賃改定の申請回数そのものが少ないことが考えられる。Aは、「7.低運賃政策の弊害」に関することであるが、筆者は、本当は以下のような主張をこの論文で予定していた。それは「運輸省の低賃金政策は、自分達の天下り先である日本鉄道建設公団や日本開発銀行を生き残らせる政策であり、それら公益法人は民間事業者と比較して非効率性が高く、また長期的に今のシステムは、鉄道事業者の利益からの設備投資よりもコストが高いのである」と言うものであった。現実に日本鉄道建設公団は、運輸省管轄下の公益法人であり、民間金融機関よりも利子が低いかもしれないが、今のシステムは確実に鉄道事業者を赤字体質にさせ、日本開発銀行に大きな利益が転がると考える。しかし、それらを示す現実のデ ータを入手することが出来なかったため、長期的には今の運賃システムが良いのか、それとも筆者が提案しているような鉄道事業者の利益からの投資を加味した運賃システムが良いのかを比較するモデルの構築も出来なかった。

次に筆者が第8章で提案した「市場中心型政策としての3つの規制改革」の問題点であるが、筆者が現時点で一つだけ危惧しているのは、B輸送力増強事業を行政主導から鉄道事業者主導で行わせることで、現在の過少供給から、最適供給で止まらずに、過大供給になるような設備投資が起きてしまう可能性が生じる。その理由として最適供給均衡点を判断させる主体として相応しいのは、鉄道事業者自身なのか、やはり規制当局なのか、それとも第三者なのかが明確にできていないことが挙げられる。

最後に、反省を含めた感想を述べたい。特定産業を取り上げて事例研究することは大したことではないと甘く見ていたことである。筆者は、特定産業の規制緩和を掘り下げて研究することは、さほど苦にならないと思い込んでいた。しかし実際は、鉄道産業の特性なのかもしれないが、筆者の想像を大きく超える苦難の連続であった。鉄道産業独特の構造と規制制度を理解するのには、苦労をさせられた。
そして第2に、筆者のデータや統計を含めた情報の収集能力の欠如が、ここまでこの論文の質を下げたということである。筆者は、データに基づいた論文制作を目標としていたが、その時描いたイメージとは質の下がったものになってしまった。
上記の2つの感想が反省なので、最後に良い感想を1つだけ述べたい。それは、この事例研究のために費やした活動には、多くの反省点があり、今後の筆者の研究活動に役立つような材料がいたるところにあることである。
この事例研究は、完全なものではなく改善の余地が沢山ある。この論文を読んでくれた人達の中で、筆者の事例研究を踏み台にしてより良い研究を試みる人が1人でも出てきてくれればと思う。
本論文の執筆に際して、横山彰教授、横山ゼミナールの皆様に沢山の助言をいただき、原稿を吟味していただいた。心からのお礼を申し上げたい。

参考文献

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運輸省関東運輸局監(1998)『数字でみる関東の運輸の動き1998』運輸振興協会
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運輸省鉄道局監(1998)b『鉄道統計年報(平成8年度)』政府資料等普及調査会
岡部豪(1997)「新しい旅客運賃制度 − 概要と特色」
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角本良平(1994)『鉄道と自動車』交通新聞社
角本良平(1997)『交通の改革 政治の改革』流通経済大学出版会
清野一治・金本良嗣(1989)「公共料金」奥野正寛・篠原総一・金本良嗣編
『交通政策の経済学』日本経済新聞社
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正司健一(1995)「鉄道輸送」金本良嗣・山内弘隆編『講座・公的規制と産業C交通』
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森谷英樹(1996)『私鉄運賃の研究』日本経済評論社
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山口真弘(1996)「鉄道事業の運賃制度について」『運輸と経済』第56巻第7号pp.36-42




(資料)「数字で見る関東の運輸の動き1998」より作成。
表10−2首都圏の主要区間におけるピーク時と終日の混雑率(平成6年)



表10−5 JR東日本、首都圏大手私鉄8社の基準単価及び基準コストの算定にかかるデータ一覧

表10−6 特定都市鉄道整備事業計画の概要1
表10−7 特定都市鉄道整備事業計画の概要2